「学び」や「学習」は、日常のそこここで繰り返し行われていることだが、より目的を持った「学び」と捉えると途端に壁が高く感じられてしまう。目的や報酬までの距離が遠く感じられたり、重層的なステップの長い道のりや、あるいは脳や精神への負担が重く感じられてしまう人も多い。
だが、「学び」という生態や構造を正確に理解すると、実はもっと楽しいものであるはずだ。

科学者や技術者などの開発プロセスを例に「学び」の構造を見てみると実にわかりやすい。全ての「学び」の入り口は、「好奇心」である。好奇心は、「どうなっているのだろう?」「何でだろう?」という想像と切り離せない。
その想像力を奥へと運ぶのは、身体だ。まずは想像から生まれたものを身体を使ってドローイングしてみることだ。ドローイングには、実際に紙やPC上に書き(描き)出すことや、秩序を持って仮説を立てる作業、そしてプロトタイピングも含まれる。プロトタイピングとは、「改良を前提とした試作品を作る」ことをいう。改良が前提なので、完成をその時点では目指していないことがポイントだ。
つまり、「学び」の過程に「失敗」がないことを意味する。とにかく手を動かしプロトタイプを製作し、検証し、そして改良を繰り返すのだ。この繰り返し作業は、まさに試行錯誤のフェーズであり、失敗でもミスでもない。成功にたどり着くのに必要な「創造的なトライ&エラー」なのだ。そして最短距離でたどり着くことが、決して最良ではないことも大きい意味を持つことになる。そのトライ&エラーという経験が、次から次への起こる「好奇心」へのヒントや解答となり、科学者や技術者としての「知識と経験」として積まれていくのだから。

このプロトタイピングや身体を伴ったプロセスというのは、「学び」に大きな意味を持つ。座学で大量の本を読むことや膨大な情報を暗記することだけが、学びではない。むしろ、身体性を伴わない学びの方が学習の生態から考えるに稀である。
例えば泳ぎを身につける場合、膨大な資料を読むより水の中に身を投じて見様見真似で泳ぎを学ぶプロセスが効果的だし、語学の学習もそうだ。とにかく他言語の言葉を聴き、聞き覚えの発音でスピーク・アウトすることが重要だ。コーディングを覚えるのならプログラムを書いてみることだし、音楽を学びたければ多くの音楽を聴いたり楽器を演奏することだ。発明をしたいのなら、自分の手で何かの製品や構造物を作ってみることだ。

失敗ではない。
うまくいかない1万通りの方法を発見したのだ。
ー発明家トーマス・エジソン
一方で、スポーツや職人的世界における技術の「習得」の場合、身体性へと直結する度合いが非常に高くなる。偏在的傾向における鍛錬とも言える。
よく言われるのが達人になるためには1万時間かかるということ。マルコム・グッドウェルの著書『OUTLIERS』で言われた「1万時間の法則」に書かれた概念だ。1万時間というと、1日8時間の計算で約5年、1日4時間なら10年かかる。もちろんこれはプロの世界でいう一流ということだが、何か「技術」を習得する場合には反復作業が必要であることは確かだろう。頭で考えて体を動かすのではなく、頭で考えずとも身体を自動的に動かせるように、その行為を身体にすり込ませる必要があるのだ。どんな時でも一定の軌道を描くように毎日素振りをする野球やゴルフ、剣道などの動きもそうだし、弛まない音の流れを実現できるように何度も何度も演奏する音楽や言語のスピーキング練習などもこれにあたる。脳科学的にみるとモチベーションや意思決定を司る前頭葉ではなく、学習や反復練習などの運動調節を行う大脳基底核の機能領域だ。つまり「身体で覚える」というやつだ。
この技術の「習得」と、限界を超えるための新たな「学び」は別物だ。メンタルを変えたり、練習方法をアップデートしたり、自己のルールを変化させることによって、到達できなかった領域へと踏む込むのは、やはりここでも「実験的試行」が行われているはずだ。

武道や日本舞踊の中での「指導」や「教え」も、興味深い。「ヘソで感じる」ように動くことや「指の先に目があるように」すること、心中に起こしてはならない四戒「驚懼疑惑(きょうくぎわく)」を求めることもそうだ。
つまりヘソで感じることとはどういうことか? 指の先に目があるかのように舞うとはどういうことか?
四戒を守った平常心とはどういう状態であるか? 明確な答えはない。
だが、それを理解しようとする試行錯誤というプロセスにこそ、意味を見出しているのだ。修行というプロセスにおいてよく見られる教育法であることは、実にユニークである。

我々は、失敗を恐れる。その弊害は想像以上に大きい。失敗は、恥ずかしさからも来るし、和を乱す感覚からもくるし、諦めや失意や環境からもくる。もっとも大きい影響は、これまでの学校教育にあると考える。「正解を最短距離で解答する」ための授業とテストの繰り返しが、それだ。我々は、義務教育の中でどれほど「決められた正解」を問われてきたか? 繰り返し行われるテストに向けて「解」を生み出すのではなく、「正解」を効率よく出力することだった。その結果、社会人になると「正解」が何か予めを与えられることを期する人間を大量に排出するに至ったのだ。
「正解」のない未来に解を出すは、実験的試行という創造的なトライ&エラーこそが重要なプロセスだ。そこには「失敗」は存在せず、「チェレンジ」があるのみだ。「チャレンジ」するものには、惜しみない「いいね!」を贈ろう。
最後に「失敗」にまつわる偉人の言葉を掲載したい。我々は「失敗」の概念を変える必要がある。世界が絶えず変化する未来を生きる我々は、子どもから大人まで誰もが生涯学び続けなければならない。怖がらず、学ぼう。恐れず、試そう。全てはPLAYの中にあるのだから。
失敗とは、よりよい方法で再挑戦するいい機会である。
―米国フォード・モーター創設者 ヘンリー・フォード
すべての失敗は成功への一歩である。
―イギリス科学者・科学哲学者 ウィリアム・ヒューウェル
あなたが求めてるすべてのものは恐怖の向こう側にある。
―米国不動産開発者 ジョージ・アデア
過ちも失敗も多かった。だが、後悔する余地はない。
―作家ヘルマン・ヘッセ
成功は成功の上に築かれるものではない。失敗の上に築かれるものである。
―米国実業家 サムナー・レッドストーン
人は成功に向かって「前に」失敗する。
―米国 科学者・発明家 チャールズ・フランクリン・ケタリング
成功とは、失敗から失敗へと繰り返してもやる気を失わずにいられる才能だ。
ーイギリス政治家 ウィンストン・チャーチル
失敗は発見への入り口である。
ーイギリス作家 ジェイムス・ジョイス
私は失敗を受け入れられる。しかし、挑戦してみなかったことは受け入れられない。
ー米国バスケット・プレイヤー マイケル・ジョーダン